先日急にたくさん本が欲しくなって、本屋さんで色々買い込んできた。それは、なんてなんて楽しくて幸せな時間なんだろう。
読みたい本を探しながら本屋さんの中をぐるぐる徘徊し。だいたい3ページくらい読んで決める。よし!この本をゆっくり家で読むぞ。そんなこんなでエッセイと小説を6冊買ってきた。
群ようこさんの小説「福も来た」が好きで、寝る前にまくら元に置いてよく読んでから寝てた。
寝る前に読む小説というのは、何度も読んだことがあるものが、ほんとうにちょうどいい。
初めて読むものはやっぱりとても続きが気になるものだし、次の日に余裕があれば、ギラギラと、話の中にのめり込んで読むのもめちゃくちゃたのしい。
しかし、なんだか今日はものがたりに触れてから寝たいなぁ。という気分の時にはやっぱり、読み慣れた小説を読むのが私は落ち着くのである。(読み慣れた漫画もしかり)
読んだことのある、おはなしを読むことは、いつだって途中で読むのをやめることができる。
そして読むのをやめた後、ぼんやり覚えている結末と、少し自分で脚色した結末が、入り交じってなんかいいかんじでしあわせな気分になれるのである。
ところでわたしは読んだ本の内容をけっこう忘れる。
その時は、しきりに感動して泣いたり、無性に生きてるってすばらし〜!とか思ったり、やるせない気持ちになったり、本を読む事で様々な感情を味わっているはずだけれど、本の具体的な内容をいかにもすっぽり忘れてしまう。
今回買ったエッセイ、江國香織さんの「泣く大人」の一説でこのような文章があって、わたしは、ああ。こういうことじゃん!と腑に落ちている。
”音楽を聴きたい、と欲することは、多かれ少なかれ、かき乱されたいと欲することだ。なんのためにかといえば、おそらく、自分の振幅に耳を傾けるために。誰かに、あるいは何かに、かき乱してもらない限り、どんな楽器も鳴ることはないのだ。”
そうだ! 私が、文章を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりするのは、自分をかき乱してくれる何かを探しているからなんだ!
それでかき乱してもらったあとは、乱した自分の感情に夢中で、かき乱してもらった相手のことはすっぽり忘れてしまっているんだよねきっと。。。
ってなんだか軽い女みたいじゃんかっ(笑
そんなこんなで、今回本を探すとき、群さんの本を買う。とは決めていて、どれにしよう。と思っていたところ、タイトル「働かないの」を見て、うん。そうだねそうだね!働かないぞ!って思って本を開いた。
あ!「れんげ荘」の続編なんだ!って気づいて、なんだかうれしくなってよし。買おう。と決めた。
そしてちょうど昨日、本を読みたくなって群さんの「働かないの」を読み始めた。
モデル風に女の子が「れんげ荘」に引っ越してきたところで気がついた。
このおはなし読んだことあるっ!!!
ということで頭からまたすっぽり抜けていたのだった。
わたしは2回も「働かないの」を買っていることになる。前に買ったときの、自分の気持ちは覚えていないけれど、タイトルに引き寄せられて買ったのだと思う。
また「働かないの」の文書にかき乱されたい自分がいるのだろう。
群さんの小説は眠る前にぴったりだから、2回買ってよかったか。となんだかうれしい気持ちになった。
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